ベストセラーコード

ベストセラーには売れる法則がある。それも効果的な広告宣伝ではなく、その本の中身にだ。

計量文献学という学問分野はあまり聞き慣れないが、データ分析の技法を文学の分野に取り入れたもののようである。一般的な計量経済学は数値データを基本的に解析すると思うが、文学はテキストを対象としなければならない。人間が一つ一つ読むとしても膨大な量の小説を読みきるのは不可能。しかし、コンピューターに文字が読めるのか。

情報処理技術の革新がそれを可能にした。著者は機械学習などのツールを利用してテキストマイニングを行い、ベストセラーになるかどうか判定する人工知能を作り出した。

本筋からはそれるが、人には文章の癖がある。これはよく意識して読まないと分からないし、本人もわかってないことが多いが、機械は識別することができる。たとえ異なるペンネームで書いたとしても正体が分かってしまうのだ。

なんともおそろしい世界になった。

 

ベストセラーコード 「売れる文章」を見きわめる驚異のアルゴリズム

ベストセラーコード 「売れる文章」を見きわめる驚異のアルゴリズム

 

 

 

組織の掟

筆者には外務省という特殊な事情があるとしても、どこであっても組織の掟があることは言うまでもない。

組織は人を引き上げてくれるが、他方で、組織防衛のためなら個人を切り捨てることも厭わない。

組織の非情さと組織を組み上げるそれぞれの個人の温かさ、冷たさ。筆者の経験からは組織で生きる上で必要な箴言が鮮烈に心に刻まれる。

言うは易し、行うは難し、ではあるが、組織で働くすべての者が肝に命ずるに値する言葉たちである。

 

組織の掟 (新潮新書)

組織の掟 (新潮新書)

 

 

 

不平等と豊かさ

 ハリー・G・フランクファートは、高名な哲学者であるが、変な本を書いている。少なくとも、日本人の一般人諸兄はそう思うに十分な理由がある。(その理由は一番最後に。)

 

 が、ここでは平等主義の是非を扱う ”On Inequality”について話したい。これもまたそんなに長くない本なのですぐ読めるが、要すればみんなが十分に豊かであれば不平等があったっていいのではないのかという主張のようである。

 これは、格差や不平等なんてどうでもいいと言っているわけではなく、ただ格差があるから問題、不平等があるから問題、という論調はおかしいのではないかという問題提起である。

 決して貧困があってもいいとは言っていない。ただ、格差や不平等と貧困を混同して同一に語るのはおかしいということである。両者に因果関係があるのであれば別だが、格差を解消したところで、必ずしも貧困がなくなるかというのはそうは言えないところである。(みんなが貧しくなるというのもありえるから。ここは価値観の問題も生じるので、「何の」平等かというところも意識しないといけない。)

 一定のサイクルを示すように、格差や不平等という言葉はまた注目されてきているが、平等の価値はまだ答えが出ていないようである。

 

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

 

 ※読みやすい。しかも、短い。何より主張が一貫していて分かりやすいです。キーワードは、「充足性のドクトリン」。

  

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)

 

 ※最近、ちくま学芸文庫で復刊されました。コメントはしません。

 

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

 

 ※ちょっと難しいです。本気で平等について考えたい人はどうぞ。答えは乗ってませんが、こんな論点があるのか。というのはわかります。

合理性と人間の性(さが)

 経済学においては、大きく分けて2つのアプローチがある。

 一つは、様々な与件をもとに演繹的に理論を構築していく立場。こちらは伝統的な経済学の流れに近い。伝統的には人間は合理的な存在であることを仮定していたが、近年は情報の非対称性など人間の有限性を意識して完全な合理性を崩すような理論の研究が進んできているようである。

 もう一つは、人間の実際の行動から帰納的に理論を構築していく立場。行動経済学や実験経済学など新たな経済学領域(行動科学や物理学など他分野からの流入でもある)がそれにあたる。

 直観的には、人間は完全に合理的な存在であるとは思えないし、もともとの伝統的な経済学の仮定が無茶であったということかもしれないが、現在のミクロ経済学の教科書でまずは完全競争を仮定して勉強しましょうというのと同じで、まずは極端な仮定だけども原理原則の抽出から、ということだったのだと思う。

 時代は進み、合理性の仮定は揺らぐが、経済学の本流の流転とはまた別に人間行動の観察から始まる研究が勃興してきたのは自然な流れだったようにも思える。

 代表性バイアス、アベイラビリティバイアス、現状維持バイアスなど行動経済学の理論では、限定合理性が詳らかに示されるが、それをマクロレベルまで昇華させ、経済全体の把握につなげるための理論構築は、経済学の本流の仕事であろう。

 

 ※行動経済学の歴史から理論まで、さらに経済学全体でのその立ち位置も分かります。

デフォルトの効能

人間社会の発展の歴史は、自由の追求と切り離せない。独裁国家君主制からの離脱、フランス革命などで多数の先達が血を流して勝ち取った民主主義は、選択する自由を得るための人々の戦いでもあった。

 

21世紀になって、情報化が進んでくると、人々のくらしは選択肢が溢れ、選択する自由の有り難さも忘却されるようになった。(世界を見渡すとそうでもない国もあるが、少なくとも日本ではそうではないかと。)

 

選択するということはエネルギーを使う。選択疲れも指摘されるようになってきた。朝起きてから毎日何回決断しないといけないのだろう。今日はどんな服を着ていく?朝は何を食べる?どの靴を履いていこうか?朝から考えることはいろいろある。だから、選ばないという選択も合理的たりうる世の中になっているのだろう。

 

しかし、それは一方で誰かに選んでもらっているということにほかならない。習慣であれば、過去の自分に選んでもらっていること。web通販サイトのレコメンド商品であれば、購入履歴からAIが選んでるのかも。もしくは自分の商品を売り込もうというメーカーの意志かも。

 

それは押し付けられるよりましなのかもしれないし、いやなら拒否もできる。でも、たまには、自分は本当にそれでいいの?って考えることも必要だと思う。

 

 

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

 

 サンスティーンは、R.セイラーとの共著で行動科学の観点からナッジというリバタリアンパターナリズムを提唱した方であり、オバマ政権内で行政実務も担当していた実務家でもあります。最近邦訳も多いですが、英語の以下の近著も気になります。

 

The Ethics of Influence: Government in the Age of Behavioral Science (Cambridge Studies in Economics, Choice, and Society)

The Ethics of Influence: Government in the Age of Behavioral Science (Cambridge Studies in Economics, Choice, and Society)

 

 

 

夜と霧

ちょっといやなことがあったとき、すべてを吹き飛ばしたい、ちっぽけな悩みに過ぎないと気づきたいときに、ホロコーストの体験記を読んでみるといい。
フランクルは、アドラーやフライトに学んだ心理学者で、詳細な現実・心理描写は読者を引き込み没入させる。それでいて、極限の人間行動はグロテスクには感じさせず、リアリティがあるが、狂気はない。
希望とは何か、生きるとはどういうことか。頭で考えるのがちっぽけなことのようにおもわせられるものである。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

原因と結果をはき違える。(それでも社会は動いていく)

  因果関係を見出すのは思ったよりも難しい。

 “見せかけの相関” であればいくらでもある。「風吹けば~桶屋が儲かる」は遠大な因果関係があるが、ジブリ映画の新作とアメリカの株価変動に因果関係はなさそう。

 ただし、ウソも何度も言うと真実になるというように、先入観が人々の期待形成に働きかけるようになると真実になることもある。

 それは原因と結果(だと思うもの)が逆転しているのだけど、思い込みが世の中を動かしている一つの例なのだと思う。行為と結果の意味のはき違えが真実に変わるのも面白いが、それが不完全な人間の行為からなる社会の大きな形成要因なのではないか。

「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法

「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法

 

 (一言コメント)

 統計学計量経済学の知識をここまで初心者にも分かりやすく書いている本はないでしょう。操作変数法や差の差分析など聞いただけでも難しそうですが、時には散布図も用いて直観的に理解することができます。